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UCDの大学院でお勉強 [study in Dublin]

UCDのことしか分からないので、それについてちらほらと。さらに言うならば、自分が所属しているところしか分からないので、はっきり言えば歴史研究科についてのことのみ。

話によると、アイルランドの大学に外国人が入学するのは非常に困難だそうだ。実際に、そのために改めてsecondary school(アイルランドだと中学と高校を合わせた感じ)に入ってから、ということをしている学生さんがいる。

それに対して大学院入学は、非常に敷居が低い。ある程度英語が出来て、お金さえ払えば入れそうな勢いである。私の場合も似たようなもの。英語力の基準はTOEFLのコンピュータベーステストで250点、かつてのペーパーのテストであれば600点と言われたが、私は250点に達せず。それでも入れた。

歴史研究科には簡単に言うと3種類の学生がいる。一つは1年間の修士課程で、卒業するともらえるのがMA(Master of Arts)。ということは、文系は共通して上記のシステムである、と考えていいのかもしれない。2つめは2年間の修士課程で、もらえるのはMLitt(Master of Letters)。最後は博士課程で、もちろんもらえるのはphD。

この二つの修士の違いは、研究期間の違いだけでなく、その研究過程が違う。MAの生徒は授業に出て、テストなりレポートなりを決められたように提出し、最後に15000語の論文を提出するもの。

MLittの方は基本的に授業に出る必要はなく、自分でこつこつ研究を続け、時には指導教官に会い、最終的に60000語の論文を提出する。課程修士と論文修士? の様な違いがある。途中でphDに変更することも可能。私が所属しているのはこちら。授業に出なくていいが、せっかく高いお金払って、しかも自分の研究プロパーの授業があるのだから参加しているが、提出物一切ださなくていいので、だんだんいい加減になりつつある。

phDの研究期間は3年で、これも授業に出ない。論文は確か100000語。日本と違い、雑誌に投稿する前に、まず博論を完成させる、という方向のようだ。日本では審査付きの、ある程度メジャー雑誌に少なくとも1本は掲載されなければ博論を書かせてもらえないのとは大違い。

私は本来、MAに留学するつもりであったが、「海外留学するなら最低2年」と勝手に決めていたので、その旨を相談したところ、まだ会ったこともない指導教官に、「あなたなら出来ると思うので、MLittに」と決めつけられて、いい気になって入学させてもらった。それで良かった。そんなにしょっちゅうレポートなど出していられないことが分かったからだ。ともかく論文を読む速度が遅いので。

ちなみに私の指導教官は、私がいろんな人に指導教官は誰かと聞かれて答えると、みんながみんな「フフ」と微笑んで、「彼はいい人だよ、良い先生についたね」と言われる人である。確かにいい人だが、なぜみんなが「フフ」と笑うのか、何となく分かった。本当にいい人なんだな。ちなみに、珍しいことに彼は博士号を持っていない。

友人で同時期にフランスに留学を始めた友人は、クリスマス中にレポートをフランス語で1本まとめていて、衝撃を受けたし、良い刺激を受けた。外国での研究、日本にはいなかった自分の研究と近い研究をしている教官達、それだけでも留学する価値はあったと思う、って、まだ始まったばかりだが。

留学して4ヶ月ほどの概観。

すでに梅のような花が咲いている、季節感のまったく感じられないキャンパス内。


留学・空港編 [study in Dublin]

厳密に言えば留学とはあまり関係ないのだが。

そもそも始めの時点で間違っていたのだ。スーツケースが29キロぐらいあったのだ。その重量のせいで、このたび初めてお金を払わされた。3万近く払わされたのだが、荷物をダブリン空港まで直接送るとなると、さらに値段が上がる、と言われたので、ヒースロー空港で荷物を一度受け取って、荷物を預け直すことにした。この辺でけちったのも問題だったのかもしれない。が、今まで明らかに重量オーバーしている荷物でも、エア・リンガスでは超過料金を取られたことがなかったので、それに賭けてみることにしたのだ。留学生活を始める前からカードを使わされたことで、かなりショックであったが。

ということで、スーツケースは預けたが、なぜかやけに重いバッグと、さらにノートパソコンを入れたカバンと二つ持って、さすがに空港内をうろうろする気にもなれず、タバコ吸えるところで一服して、そのあとは出発前に旧ゼミの先生より借りた(ほとんどもらったと言えるが)本を読んで時間をつぶす。で、ひゅっと飛行機で香港へ。

香港に着いた時は夜10時頃だったかな、ともかくかなり遅い時間だったし、荷物が重いのでやっぱりどこかに寄る気にもならず、出発ロビーで本を読み続ける。さすが、ダン・ブラウン。で、ひゅっと飛行機でヒースローへ。

荷物をピックアップするために、トランジットではなくパスポートコントロールへ向かう。この時点でほぼ24時間は起きてる状態。飛行機内ではうたた寝で4時間程度なので、思考能力はかなり落ちている。そして荷物が重い。30分以上待たされてやっと係の人のところに行って、アイルランドへ直接向かうこと、目的は留学であることを述べて、大学からの書類と入居先の書類を提出して、はーっ、と思っていたら。

もめた。生まれて初めて、ヒースロー空港で係員ともめた。いろいろ噂は聞いていたが、今までなにも起きなかったので、自分は大丈夫だと思っていた。甘かった。奥からお兄ちゃんがやってきて、なんだかべらべら文句を言っている。思考は停止状態だし、ヒアリングは苦手だし、しかもなんだか「イギリス大使館になんで行かなかったんだ」とか言ってるし。だから「アイルランドに行くのはなんの目的であってもヴィザはいらないと言われたんだ」と言っているのに、「This is simple, Madam」(しかもマダーーーーム、と延ばされて激しくバカにされた感じ漂う。そうだよ、東洋人だよ、なんか文句あるか、と思ったが)などと言って、私が出発前になんの準備もしてこなかったことを、くそっ丁寧なキングス・イングリッシュで責め立てるのだ。「だからいらないんだってアイルランド大使館に言われたのだ」という押し問答の末、その兄ちゃんは奥から何かの本を持ってきて、やっと確認した。で、係に「あ、いいみたい」なことを言って、はんこをやっともらうことが出来た。20ふん近くもめたと思う。しかし、一言の謝罪もないのね。apologize ぐらいいっても罰は当たらないと思うけど。要はオタクが知らなかっただけなのね、って広い心で受け止めてやってもよかったが、一言もなかった。「謝罪はないのか」と言ってやればよかった、と今なら思うが、疲れてたし、脳みそは死にそうだし、荷物は重いし、これ以上もめたくなかったし。と言うことでこちらも例の一言も言わず、パスポートコントロールを抜けた。

これで、あのターミナル3の、少なくとも兄ちゃんと、係のお姉さんは、アイルランドに行くのに、どんな理由であれ、滞在期間どれほどのものであれ、日本人はヴィザをとる必要がない、ということを知ったのであれば、それでよしとするか。

ちなみにダブリンの空港では、非常に厳重なパスポートコントロールに遭遇。これも初めて。かつては入国のハンコすらくれなくて、寂しい思いをしていたのに、変われば変わるものだ。そこで写真を撮られて、1ヶ月以内に長期滞在許可書を取りに行ってね、と言われて終了。ここでもヒースローでの扱いを思い出し、がっくりと疲れた。

と、今なら落ち着いて書けるかと思ったが、やっぱり思い出したらむかついたので、実は意外と私は「情熱的」(=怒りが持続する)なのかも、と思った。ちなみに、ヒースロー・ロンドン間ではもちろんにもつの課徴金はなく、さらに機内持ち込むつもりだったカバンも重量オーバーで預けることに。二つ預けたけど1ユーロも取られなかった。ちなみに、重い重いと思っていたら、今まで持ち運んでいた荷物(ノートパソコンじゃない方)は11キロあった。重いはずだよ。

未だになぜ二つの荷物があれほど重くなったのか、よく分からない。紙はほとんど入っていなかったのに。秋物の服のせいか?

このあとに大学で学生証を手に入れるのに、さらにもめるとはこの時は思っていなかったのだ。留学っていろいろ大変。コーディネーターさんに全部やってもらえばよかった、と思ったりした。それは無理だけども。何事も経験、というにはちょっと年を取りすぎた感あり。


大学院への留学・2 [study in Dublin]

大学院に留学しよう、なんて人はきっとブログで情報探したりしないだろうから、ここは自分がどれだけ苦労したか、ってことを書いて、自分で自分を褒めてあげるためのものだな。イヤな台詞だが。

年が明けてから、大学院側に応募要項を送ってくれ、というメールを出したが、一度メールが開通(笑)するととんとん拍子に進むもので、1週間ぐらいで到着。メール出して、すぐ送ってくれたのね。さらにTOEFLは今ではネット予約できて、空いていればすぐにも受けられるような代物になっていたので、一番近い空いている日に予約。ただし、朝8時半とか9時に茅場町に来い、という条件だったので、当日は眠かったが。

さらに友人のアドバイスを受け、3月頃に要項がでるだろうと思っていたアイルランド政府奨学金の要項をもらうため、大使館に電話を入れる。まだできてはいないが、でき次第送るので、ということで指定サイズの封筒に指定された切手を貼って郵送。これは2月後半に届く。

これからが大変。必要とされた書類に関して一部が非常に困難だった。

簡単だったのは2名の推薦状。指導教官と中世初期アイルランド史のプロパーで、普段からお世話になっている先生の2名にお願いする。大学院用と奨学金用とで英語2通、日本語1通。かな?

成績証明書、卒業証明書、在学証明書おのおの。私はアホなことに3つも学校に行っているので、それぞれを取りに行くのが大変だった。しかも英語と日本語両方で、2つ目の学校の英語の証明書がかなりいい加減で・・・。変な大学名にしたり、「日本初の単位バンク制」とか謳っている前に、グローバル化を進めなさい。そういえば、ここは外国の大学図書館への紹介状すら出してくれなかった。

奨学金側で大変だったのが、健康診断書。現在在学中の大学では、「大学の」指定用紙でしか英語の診断書を出してくれない(よく考えるとおかしな話だよなぁ。つまり、英語ができないから決められたフォーマットでしか作れないと。でもこちらが必要とする書類も、英語できなくてもほぼオッケーだよ、ってぐらいかんたんなえいごだったんですが・・・)。これのためだけに健康診断に行ったのに・・・。しかし、奨学金側では当然、政府が指定した用紙を使え、ということだったので、英語で診断書を出してくれる病院を探し、そこで英語で診断書を書いてくれる先生が来る曜日に朝から行き、何時間も待ち、5分ぐらい話して終了、9000円になります、という状態だった。というわけで、現在通っている大学もグローバル化がやや進んでないと見た。最初に行ってた大学が、あまりにもグローバル(っつうかアメリカナイズ)だったために、大学ってみんなそんなものだと勘違いしてたよ。

大学院側に提出するので一番大変だったのが「出生証明書」。そんなの日本にないし。ということで、戸籍を取りに、最近できたひらがなの名前の市の役所に行ったら、「英語で戸籍は出せません」だと。友人の住む新宿区は出たそうだぞー。それで、役所に教えてもらった公正証書を出してくれる事務所を訪れて、頼んだ。が、結局、戸籍を英訳したのは私で、それを公証人にメール送り、それを元に(というかほぼそのまま)英語で戸籍を作ってもらって、ハイ、1万5千円。

用はお金がかかったってことで。

あとは、何をやりたいかや、履歴書を英語で書いたりして、締め切りまでに書類を送り(コピーを作ったり、書類に書き込んだりなどあったが、結構忘れてるな。それらは指示通りにすれば良かったから)、お返事を待つ。

こう書くと、結構簡単だな。そう、やっちゃうと結構簡単なのだった。一部の書類がうまく手に入りにくかったりしたが、何とかなるもんだし。何とかなるんだなぁ。

で、このまますいすい行くと思ったら、最後の最後に大きな問題が発生。

それはまたいつか機会のあった時に。わりと最近なので生々しい。


大学院への留学 [study in Dublin]

「西洋史を学んでいる学生は、博論書く前に研究対象国に赴いて1年は留学するべき」ということなので、留学してみた。その顛末を。

博士課程の2年目で行くつもりは始めからあったので、2年目の秋頃から何となく行動を開始してみた。行きたい大学は決まっていたので、そのHPへ行って、まず指導教官になって欲しい先生に当たりをつけた。これもほぼ決まっていたので、名前を探して、メールアドレスを調べる程度ですんだ。

残念なことにUCDの当時のホームページは情報が古く、学費もまったく分からない。それでもともかく指導教官が受けてくれるかどうかが重要なので(これって日本の大学院にも当てはまるな)、失礼ながらメールを送った。送り返されてくる。再びトライ、送り返されてくる。「こんな宛先ありません」と。途方に暮れた。これが11月のこと。

今度は関わりのありそうなところに片っ端からメールを送った。Faculty of Arts, 国際学生課(International Offce)、歴史研究科(School of History)。「○○先生にメールを送ったのですが、送り返されてくるのだが」という質問も入れて。さらに、指導教官になってもらいたい先生には手紙を送った。友人の話&私の経験から、優先順位は手紙>ファックス>メール、と考えていたので、先生の方は緊急性も考えて最上位の手紙を送らせていただいたのだ。

案の定、メールだとお返事がこない。これは経験済み。次はファックス攻撃。そうしたところ、国際学生課よりメールでお返事が。ファックスを歴史研究科等にすぐに送ったので、向こうから返事が来るだろう、とのこと。やっと、来た。そこで、指導教官の正しいメールアドレスを知る。ちなみにこの時点で先生からお返事は来ていない。これで12月に突入。

先生からいいお返事がもらえるまではそれ以外の行動は慎もう、というか、かなりやる気がなくなっていたので(しかもバイトの塾講が冬期講習直前でてんてこ舞い)、しばらく放置することにした。この時点ではまだTOEFLの状況についてもつかんでいなかった。(最後に受けたのが10年も前だから、何も覚えていなかったし、所属先も変わったので、どこで用紙をもらえるか、−−−用紙、と言ってる時点で時代に取り残されていたのだが−−−まったく皆目ついていなかった。)

新しい展開が始まるのは年が明けてから。

今思うと、この時期はテスト期間中、冬休み直前などという、学校側にとってもてんてこ舞いの状況だったのだと思う。10月ぐらいから準備を始めれば良かった。

以下次号。


提携校 [study in Dublin]

ICUがUCDと提携、というか、UCDの語学学校と提携してELPの1年生の授業の一環として夏休みの時期にかなりの生徒が来る、というのは知っていた。8年前から行っているはず。

早稲田も提携していて、国際教養学部の生徒さんが10人ぐらい、artsに交換留学しているのは、今年の夏に2週間だけ語学学校にいたときに知った。交換留学っていい制度よねぇ、しかもアイルランドの大学と。

と思っていたら、その早稲田の学生さんの話によると、慶応も提携校となったそうだ。さらに東大もそうなるという噂。

DCUは上智と提携しているはずだし。結構提携校、あるんじゃないすか。私の学部時代と比べて、アイルランドで勉学、の状況は良くなっているのだなぁ。アイルランドの経済が好調の故なのだろうか。

もう少し遅く生まれてたら良かったのかもしれない。大学入学の競争率も、私の時に比べたら恐ろしく低い数字になったし、あと2年で全入時代だしねぇ。

ICUとUCDとDCUと、こんがらがる。ちなみに三つともUは当然Universityだが、Cはそれぞれ違う。Christian, College, City。

意味はないけど。


留学について・2 [study in Dublin]

書きまくってる今日この頃。

2回目にダブリンに語学で短期留学したのは8年前。このころはまだまだアジア人を街角で見ることが少なかった。でも日本人観光客が増えたなぁ、と思ったのもこのころから。たぶん日本において本格的に「ケルトブーム」(イヤな言葉)が普及したのがこのころなんだろう。

このときの情報収集も記憶にないが、ネットではないかな。今度はUniversity College Dublin (UCD)のApplied Language Centreに来てみた。期間は1ヶ月ぐらいだったと思う。このときは主にファックスで連絡を取り合った。飛行機のチケットのことなども考えて、3ヶ月前に準備を始めたので、ホームステイ先にこちらから手紙を書く余裕もあった。
http://www.ucd.ie/alc/

手続きは基本的に前回と同じ。東京銀行(合併してたか?)で現金を振り込み、HISで格安チケットを買い、トラベラーズチェック(英ポンド)を作成。そういえばこの時もまだ「地球の歩き方・アイルランド編」なんていう便利なものがなかったので(あったかもしれない。現在あるけど超薄い、情報量不足しまくり。前に比べれば間違いは減ったけど)、Lonely Planetのアイルランド編を購入。分厚い。情報量多すぎ。日本語版はまだ出ていない。
http://www.mediafactory.co.jp/books/lplanet/
本家の方ではいろんな種類があるみたい。「アイルランドでサイクリング」。確かに比較的平たい国だから、楽だろう、アルプスを自転車で越えちゃうようなドイツ人やフランス人にとったら。車が走るの向きが逆だけどね。
http://www.lonelyplanet.com/

Lonely Planet Ireland (Lonely Planet Ireland)

Lonely Planet Ireland (Lonely Planet Ireland)

  • 作者: Tom Downs, Fionn Davenport, Des Hannigan, Etain O'Carroll, Oda O'Carroll, Neil Wilson
  • 出版社/メーカー: Lonely Planet
  • 発売日: 2004/01
  • メディア: ペーパーバック


この時初めてロンドン→ダブリンを飛行機で移動。ロンドンの税関を通るときは前回もそうだったが、短期留学なので「観光、しかもイギリスはトランジットだけ」と嘘ついて、難なく通過。7月の半ばぐらいについたと思うが、夜10時過ぎにダブリンに到着してもまだまだ明るくて、「あー、ヨーロッパ」と思わせた。

まだ飛行場→街中直通バス、っていうのがなかったんじゃないかな? それとも気が付いていなかっただけかもしれないが、ダブリン市バスで、ほとんどバス停に止まらない「エクスプレス」系のバスで市内に出て、そのあとタクシーでホームステイ先に向かった。

午前中だけじゃなく、火・木の午後にもコースを取って、結構まじめに通っていたが、じつはUCDの語学学校に来たのにはもう一つの理由が。1つめの修士論文(アホなことに修士に二度通った私・・・)のために大学図書館に行くこと、それがかなり大きいポイントだった。デポジットだったんだか、結局払ったんだか記憶にないが、わりとお金を払って図書館カードを作ってもらった。で、コピーをしまくった。日本にはない本(あっても地方にあって取りに行けない本)が一杯! 

最後の1週間ぐらいだけ大学の寮に泊まったが、この時も、夏だけ寮に旅行者が泊まれるとは知らなかった。そういえば、同時期にケンブリッジに短期留学してた友人が週末遊びに来て、オコンネル通りのバーガーキングで置き引きに遭っていたっけ。まったく気が付かなかったので、上手な置き引きだったんだろうな。

ま、語学留学は半分は遊びか。贅沢な遊びではあるが。両親に深く感謝。


留学について [study in Dublin]

留学について少しだけまとめてみる。

1番最初にダブリンに留学に来たのは10年以上前の話。正確に覚えていないが、93年か94年の夏、1ヶ月の短期語学留学。ダブリン北部のDublin City University (DCU)。なぜここを選んだかと言えば、その前年、初めてアイルランドに観光に来て、一番安い宿、ということで泊まったのがDCUの学生寮だったから。少しでも知っている場所の方が安心できる、ということで選んだ。

現在は、これかな?
http://www.english.dcu.ie/

現在はかなり大きいようだが、私が留学したときは、クラスは二つ、初級者クラスと、中級者以上クラス。初級者の方には、どこからか忘れたが、日本の女子大のお嬢さんたちが何人かいた。彼女たちの大学の英語の先生がアイルランド人だったからだそうだ。それ以外は中級者以上クラス。でも10人に満たなかった。日本人は私一人。ある日なぜかそれぞれの国の国歌を歌え、ということになり、「国家じゃないのに(このときはまだ国家じゃなかったのね)」と思いつつ、暗い「君が代」を一人で歌わされた。

当時はまだインターネットに触ったことが1度か2度、という状況で、どうやって学校の情報を手に入れていたか、記憶にない。アイルランド政府観光庁か、大使館で何かをもらったような気が、うっすらとする。その後の交渉もよく覚えていないが、おそらく手紙かファックスで連絡を取り、入学する旨を伝えたのだと思う。そのときはホームステイではなく、寮に入っていた。期間はまったく覚えていない。

支払い等についてもよく覚えていないが、間違いなく東京銀行(がまだ三菱に吸収合併される前)から振り込んだのだろうな。まだアイリッシュ・ポンドの時代だった。大量のトラベラーズチェック(英ポンド)を持って行ったんだと思う。

このときは結構いろいろなところに行った。DARTに乗って北部郊外のHowthに行ったり、しばしば街中に出てパブに行ったり(途中からは学校のパブに入り浸り。そういえばここには日本酒があった。頼むと必ず熱燗で出てきたので、暖めないでそのままくれ、と言ったら、そのままでも飲むのか、と聞かれた。)。Glendaloughに初めて行ったのもこのとき。その後は友人とGalway, Aran Islands (Inis Mor 日本語にすると「大島」), Sligo, Donegalに行った、はずだ。

今にして思えば、最初の機会から業者に頼もうという考えすらなく(そういうことを代行してくれるところがあることすら知らなかった)、自力で手続きから飛行機チケットの手配までしたことが、良い経験になった。

確かこの時は、ダブリンに入国する前にイギリスに入り、ロンドン、ランズ・エンド、ウェールズを回って、ウェー留守の北西部の島、アングルシー島の先端にあるホリーヘッドからフェリーで入国したはず。この当時は4時間かかりました。今は高速船で1時間半しかかからないそうだ。


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